他人に相談しないと決められない人と、他人のことに口出ししたがる人の共通点
人に相談しつつ、結局意見は聞かない人、というのがいます。
本当に柔軟にいろいろな人の意見を聞いて取り入れる人ならいいのですが、困った人というのは、結局相談だけしておいて、何か言っても、「でも~」とか、「だって~」で始まり、結局解決につながりません。
よくよく聞いてみると、こういう人の会話というのは、実は相談しているようで、もとから相手の意見を聞く気はない。
自分の考えと違うアドバイスには耳を貸さないか、わざわざ反論して説得しようとします。
一方で、人にアドバイスするのが好きな人というのもいます。
本当に親切心からならいいのですが、困った人の場合、頼まれもしないのに、他人のやることに口出しをしてきて、他人がそれに従わないと途端に不機嫌になります。
この二人、一見やっていることは、他人に相談することと、他人の相談に乗ろうとすることと正反対のように見えますが、実は同じことを目指していて、だからこそうまくいかないのではないか、というのが今回の仮説です。
人間というのは、自分で物事を決めたいという欲求をもっています。
一方で、決めたことについて、責任を取らずに済ませたい、自分だけのせいではないことにしたい、というのも、人間の自然な心理です。
まず、人にやたらと相談したがる人の心理を考えてみます。
本来、自分が決めていいことなのだから、誰かの意見を聞く必要なんてない。
人に反対されても意見を変えないなら、初めから相談しなければいいだけの事です。
では、なぜそれをあえて相談するかというと、自分で決めることから逃げることができるからです。自分一人で決めたことなら、それで失敗したときは、自分一人が間違っていた、ということになります。
しかし、相談してお墨付きをもらっておけば、自分が決めたという責任を、相談相手にも押し付けることができてしまいます。
次に、人にアドバイスするのが好きな人の心理を考えてみます。
他人にアドバイスするだけなら、アドバイスに人が従わなくても、別に気にすることはありません。
では、なぜアドバイスといいつつ、人が従わないと不機嫌になるのか?
それは、アドバイスすることそれ自体が、自分は責任を負わずに物事を動かすことができる、という目的のもとに行われているからです
アドバイスした人は、最終的に相手をそれに従わせることで、自分が決めたとおりに相手を動かすことができます。いっぽうで、あくまで「アドバイス」にすぎないので、間違っていた時の責任は負う必要がありません。
だから、この二者というのは、本質的には同じ、「自分が物事を決定しておきながら、責任は負わない」という目的のもとに行動しています。
だから、この二人が会話をすると、本来相談したい人とされたい人だから一見利害が一致していそうなのに、険悪なムードになってしまいます。
相談したい人の側は、頼んでもいないのに役立たないアドバイスを押し付けられた、と感じて不愉快な思いをします。
一方で、相談された方は、相談しておいて、結局いう通りにならないなら何のために相談しに来たんだ、とこれまた不機嫌になります。
この関係というのは、結局のところ、お互いに自分が決定権を握って、責任を相手に押し付けようとするという不毛なゲームを繰り返しているだけなので、不幸な関係性にしかなりません。
これに陥らない方法というのは、自分で決めて、自分で責任を持つ、という原則に戻るしかありません。
アドバイスを受ける側はアドバイスとしてもちろん尊重するけれども、最終的に決めるのは自分であるという意識を持つ。一方で、アドバイスする側も、アドバイスはあくまでその人のためにして、自分のためにするわけでないこと、決めるべきはあくまで相手であって自分でないことを意識する。
先日の記事で上司が部下への「指導」と「指示」を分けることを推奨しましたが、上司と部下の関係も、まさにこのようなところがあるのではないかと、自戒を込めて。
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先輩・上司は、部下の「教育」をやめて、自分を中心に話すべきである
今年の4月から、部下を持つ身になり、何となく上司としてのあり方を考えさせられる機会が急に増えました。
まだ1ヶ月で何もわかっていない状態ですが、そんな中で思ったことは、「上司は、「教育」は自分の仕事ではないと認識するべき」ということです。
初めて部下を持つ立場に立ってみて、最初の1週間は張り切って部下を「教育」しようと思って接していたのですが、自分自身、その時の言葉遣いや考え方にどうも違和感が拭えない。
慣れの問題かと思ったのですが、どうもそうではない。もっと根本的なところに問題があるうような気がしました。
そこで、ふと気づきました。
「教育」というのはあくまで相手を変えようとする行為です。
そのため、スポットライトが当たるのはあくまで相手の方です。
そのため、何かを話す時の主語は「君が」になります。
だから、こういう言い方になります。
「君(の仕事)が、これじゃだめだよ。」
しかし、そこに、「先輩・上司である自分」は登場しません。
その言葉は、しばしば、単に上司である自分が気に入らないだけだったり、あるいは自分のほうが間違っているのを、全て相手の問題にすり替えてしまうことができるという便利さを持っています。
しかも、そう言っておけば、まず反論は返ってきません。それに対していや、貴方のほうが……などと言い返す人はまずいないでしょうし、いたとしても、「お前の為を思って言ってやってるんだ。俺のことは関係ない」で終了です。
これに慣れてしまうと、上司の側は、一方的に相手を非難することで自分の問題をすべて相手に押し付けてしまうことができますし、部下の側は部下の側で、一方的に(しばしば自分は悪くないのに)怒られる、という力関係が成立してしまいます。
この状態で一番不幸なのは、むしろ部下よりも上司の側です。
自分が間違っていても反論されない、という経験は、いつしか全能感を呼び起こします。
論理的に説明しなくとも他人にいうことをきかせることができる、という環境は、論理的思考力やコミュニケーション能力も蝕みかねません。
この状態になれてしまうと、自分自身が仕事のできない人になりかねません。
また、部下が不満を持っていると、せっかくお前の為を思って言ってるのに、と、余計なストレスのもとにもなります。
ということで、自分自身、「教育」という発想を辞めることにしました。
当然仕事をしていくための「指示」は必要でしょう。
そして、その指示を浸透させるための「説明」も。
そういう時は、必ず「僕は」を主語に使うことにしました。
「これだと僕がこういう理由で困る。だからこうしてほしい。」
こういってみると、自分の言ってることの方が単なるワガママじゃないか、ということを自分自身顧みなければならなくなりますし、言われる部下の側も、色々と言いたいことを言ってくれるようになりました(これは単に舐められているだけなのかもしれませんが)。
これが一般的に良いのか悪いのかはまだわかりません。
特に、部下の育成も仕事のうち、と考えると、単なる職務放棄なのかもしれません。
ですが、今のところはこれでうまく回っていますし、自分が部下の時を考えると、こちらのほうが仕事もやりやすく、結果的にはかえって成長できるのではないか、と勝手に想像しているところです。
なお念のため、いい結果が出た時については、自分が中心だと反感を買うのでご注意を。「僕が頑張った」ばかりでは、単に自分一人の手柄にしているみたいなので。
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本好き必見!年30万円以上の本代を支出する活字中毒者が毎年無料で飛行機に乗る方法
昔はよく、給料の1割は本代に使えといわれたそうです。
自分もその言葉を忠実に守ったわけではないですが、だいたい去年本代に使った金額を計算してみると、手取り給料の1割弱の30万円くらいでした。
一月に換算すると2万5000円。
一般人の平均よりは明らかに多いですが、本好きとしては、このくらい本代を使っている、という方はそれなりにいらっしゃるのではないでしょうか。
今回は、自分も実践している、本代の支出を最大限有効活用して、飛行機に毎年無料で乗る方法についてご紹介したいと思います。
その秘密は、ハピタスというサイトの中に併設されている、「ハピタス堂書店」というネット書店です。
ここ、毎回本の購入額の7%のポイントがつくんですね。
それだけなら他のネット書店でもよくあるんですが、このサイトの特徴は、元々がポイントサイトだけあって、このポイントの交換先が豊富です。特に、さらに交換先の豊富なドットマネーにいったん交換することで、東京メトロの発行しているメトロポイントに変更することができます。
このメトロポイント、ソラチカカードというクレジットカードがあると、9がけでANAのマイルに交換することができます。
だから、本の購入をこのハピタス堂書店に一元化するだけで、年間の本代の6.3%がマイルになって戻ってくる。
年間30万円として、その6.3%というと、1万8900マイルになります。
ANAの場合、たいていの路線の往復航空券は、繁忙期でも1万8000マイルあれば手に入るので、1万8900マイルが毎年入ってくることで、1年に一度、無料で飛行機に乗れるんですね。
自分は毎年末に東京から九州に帰省しているのですが、これを利用してその飛行機代はマイルでまかなっています。
……まあ、飛行機代を心配してくれる実家の親にこの話をしたら、そもそも本代が年に30万円もかかることが異常だと言われたわけですが。
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「キャプテン」のイガラシに学ぶ、能力の高い問題児を扱う方法
「キャプテン」には、近藤というキャラクターが登場します。
並外れた剛速球と長打力を持っているものの、守備が嫌いで、練習もサボろうとする。
しかも先輩に対しての礼儀もなっていない。
リーダーからすると、非常に腹の立つ存在です。
二代目キャプテンの丸井もまた、近藤のことを嫌い、厳しく接します。
ことあるごとに怒鳴りつけては尻を蹴飛ばし、OBになってからも、その姿勢は変わりません。
バッティングの調子がよくて調子に乗っていると怒鳴りつけ、自分の高校の先輩に対する失礼があれば蹴飛ばしています。
これに対し、3代目キャプテンのイガラシは、一見、対称的に近藤を甘やかしているように見えます。
合宿では一人だけ近藤のことを特別扱いしてノックを免除するように丸井に進言します。
地区予選では、好きなように投げていいと言います。
自分がキャプテンになってからも、敬遠は嫌だというのに対し、わざわざピッチャー交代までして、自分が代わりに敬遠を買って出ることまでしています。
しかし、イガラシの時代、特に全国大会に入ってから近藤は大きな成長を見せます。
準決勝では、爪をはがして、痛いのをこらえてリリーフにたち、見事最終回を押さえてチームに勝利をもたらします。
また決勝でも、最後に試合を決めたのは近藤のタイムリーでした。その最後の打席では、一見自分勝手なように見えて、実はチームの状況を冷静に考えた行動をとっています。
この二人の違いは、丸井は「べき」で考えているが、イガラシにはその発想がないことです。
丸井は野球部員であればこうあるべき、という像を持っています。
先輩を敬うべき、真摯に練習に取り組むべきetc
この「べき」自体は、何も間違ってはいません。
近藤のほうがこれに従うべき、ということは誰もが納得するでしょう。
問題は、近藤がこの「べき」に従うことができないし、無理に従わせようとするとすぐにやる気をなくしてしまって戦力にならない、という現実に対し、どう向き合うかでした。
丸井は、近藤に対し、あくまで「べき」を求め続けます。
それに対しイガラシは、あくまで、野球部がその時点の戦力で全国制覇を成し遂げるにはどうするか、という観点でしかものを考えていません。
そのためには、近藤が、色々と指図をしてもやる気をなくすだけ、ということを前提に、貴重な戦力である近藤をどう使いこなすか、ということを考えているだけです。
イガラシは、敬遠を買って出た試合で、なぜそこまでするのかについて、こういっています。
「ただでさえピッチャーは気分で左右されやすいってのに、しかも近藤じゃねえか」
つまり、イガラシは、別に優しいからこうするわけではなく、近藤の力が必要で、その力を発揮させるにはどうすればいいか、という問題に対し、合理的な行動をとっているにすぎません。
実際、イガラシは、別に近藤の能力が発揮されなくてもいい場面、例えば新入生テストの手伝いやバッティングピッチャーをさせる時は、皆の前で名指しでバントが下手と言ってみたり、記者の前で球が遅いと言ってみたりと、近藤に対してもかなり辛辣です。
丸井がキャプテンの時、作戦のことで丸井とイガラシが対立したことがあります。
このとき、イガラシの作戦に好き嫌いから反対する丸井に対し、イガラシは「勝負ってもんにすききらいをはさむもんでもないでしょうが」と言い返しています。
まさに、この近藤をめぐっても、好き嫌いを排して行動するかどうかが、うまく扱えるかの分かれ目なのでしょう。
自分がチームを率いる立場になってみると、一人くらいは、この近藤のような、能力は高いが問題児という部下が現れます。
そういうときは、このようにイガラシのように行動しなければ、と思うのですが、どうしても実際にはなかなかうまくいかないもので、ついつい色々と言ってしまいますが、自戒を込めて書かせていただきました。
※むしろ、中学生なのにイガラシがここまで人間ができていることが驚きなわけですが。
ところで、現在、グランドジャンプで連載されている「プレイボール2」においては、現在、丸井の前のキャプテンである谷口が、同じような問題児として描かれている井口をどう使うかがメインで話が展開されています。
グランドジャンプ 2017 No.9【電子書籍】[ グランドジャンプ編集部 ]
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ここまで、谷口と近藤との絡みはなく、そのため、谷口がこういった問題児をどう扱うか、というのは、「キャプテン」「プレイボール」を通じて殆ど描かれていません(強いて言うなら、「プレイボール」で、入部初日の井口に対し注意するシーンくらいでしょうか)。
「プレイボール2」の作者であるコージー城倉さんが今後、この問題をどう描いていくか、注目したいところです。
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他人を否定せずにはいられない人の原因は、小学校時代の習慣ではないか
小学校のテストのとき、よく、隣同士で答案用紙を交換して、採点しあうということがあったと思います。
その場面を思い出して下さい。
自分が自信がないまま、答えを3と書いた問題について、交換した隣の人の答えは4でした。
こんな時、先生が答えを読み上げるまでの間、どう思うでしょうか?
テストのように、答えが一つに決まっている問題について、自分と違う答えが正解であるということは、自分の答えが間違っていることを意味します。
だから、テストの結果にこだわる子ほど、自分と違う答えがあると不安で落ち着かなくなります。
そこで、先生から答えが読み上げられるまでの不安を解消するために、その答えが間違っていると確信できる理由を探そうとします。
自分の答えが正しい理由は何度もテスト中に確認しているわけですから、もう一度その確認を繰り返すよりも、隣の人の解答が間違っていることを確認するほうが不安の解消に役立ちます。
そこで、頭のなかで、隣の人の解答をなんとか否定しようとします。
これは子供の考える事としては当たり前だし、何も間違ってはいないと思います。また、テストの結果にこだわることも、むしろ勉強熱心でほめられるべきことでしょう。
問題は、そういう子ほど、こうして、自分の答えと違う解答を否定しないと落ちつかないことが、習慣になってしまうことです。
子供の頃の刷り込みとは恐ろしいもので、その習慣を引きずったまま、大人になってしまうと、色々と困ったことになります。
その人にとって、他人の選択が「正解」であるということは、自分の選択が「不正解」であることを意味します。
しかも、テストの採点ならすぐに何が正解だったのかが示されますが、往々にして、大人になってからは、正解がない問題や、死ぬまで正解がわからない問題に向き合わなければなりません。
だから、自分と違う選択をしている他人について、なんとかその選択が間違いである理由を探して、否定せずにはいられなくなってしまいます。
人によっては、間違いである理由を作ろうと、その人を直接攻撃するかもしれません。
実際、会社の会議でも、自分と違う意見について、揚げ足取りや人格攻撃をして、潰しにかかってしまう人がよくいますが、こういう人は、自分と違う意見を認めてしまうと、自分が間違っていることを認めたことになると思っている。
こういう人と話をすると、結局どっちの意見が正しいかで平行線になってしまい、収拾がつかなくなってしまいます。
実際のところ、この分析がどこまであたっているのかはわかりません。
ただ、こういう困った人のことも、こういう風に、「ああ、この人はまだ頭のなかが小学校のテストなんだなあ」と思うと、その腹立ちもすこしは収まるのではないでしょうか。
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自分が仕事ができないと思っている人に読んで欲しい、ブラック企業は、なぜ生まれるのかについての仮説
サッカーでは、統計的に、ホームチームの勝率は6割を超えているということです。
逆に言えば、アウェーのチームというのは、ホームでの実力を全ては発揮できないということでしょう。
この事を知らずにホームでばかり試合をしているチームは、本当はこのアドバンテージのおかげで勝てているだけなのに、いつの間にか、自分たちは強豪チームであるかのように勘違いをしてしまうでしょう。
また反対に、自分のホームを持たず、いつも相手のホームで試合をしているチームは、本当は実力があったとしても、自分に実力がなく、もっと練習しなければいけないと考えるでしょう。
これと同じことは、会社でも起こりえます。
会社の規模にもよりますが、わかりやすくするために、例えば、元々は社長が一人でやっていた零細企業を考えてみます。
その社長は絶対的な権限がある。何しろ一人なのですから、誰も文句を言う人はいません。
それに、稼ぐのも一人の力なのですから、自分が仕事をしやすい環境にして、最大限仕事ができるようにして、最大限自分のパフォーマンスを高めることは、仕事の進め方としても正解でしょう。
こうして、社長は、事務所内でのルール、仕事の段取りの仕方を整え、継続的におつきあいのできる相性のいいお客様を開拓し、自分が最大限のパフォーマンスを発揮できる最高の環境を得ました。
ここで、社長のホームグラウンドの完成です。
ここに、そういった状況を知らない新入社員が入ってきます。新入社員からすると、社内の環境も、仕事の進め方も、お客のこともわからない中で仕事を進めなければなりません。いわば、完全アウェーの状態です。
個々の相性の問題はありますが、よほど相性がよくない限り、どんなに慣れても、所詮アウェーであることは変わりがありません。
アウェーである以上、100%のパフォーマンスは発揮できません。
このことに、もし社長が気づいていないと、往々にしてブラック企業化という悲劇が起こります。
社長は、自分に劣るパフォーマンスしか発揮できない社員に、こう言います。
俺はこれだけできるのに何でできないんだ!
会社があわない?甘えるな。みんな最初からあう仕事なんかあるものか。自分が仕事にあわせることを考えないでどうする。学生じゃないんだぞ!
さらにたちが悪いのは、この社長の言っていることの方が「正論」ではあることです。
給料をもらっている側である新入社員の側が仕事のしにくさは我慢する方が筋です。
責任感の強い人ほど、こう思い込んで、自分で自分を追い詰めてしまいます。
仮にその人が耐えて慣れてきたとします。
そして、そういう人は、100パーセントの力が出せないなら、120パーセントの時間と労力を投入して何とか乗り切ろうとします。
それで問題が万事解決か、というとそうではありません。
さらに次の人が入ってきた時に、その人が同じように耐えられるかはわかりません。
しかも今度は、前の人は耐えて慣れた、という実績がありますから、後から入った人は、さらに追い詰められてしまいます。
その人が耐えてもさらに次に入った人が・・・・・・と、この循環というのはいったん始まってしまうとなかなか止められません。
こうなると、ブラック企業化の始まりです。
本来組織を効率的に運営しようと思ったら、組織の構成員全体のパフォーマンスを最大化する必要があるところ、たった一人の社長のために最適化されている。そのために社員の労働効率が悪いわけですから、長時間労働でカバーするしかありません。
そして、それについていけない人、あわせられない人は、結果を残せず、能力不足という評価を受けて脱落していくことになります。
社長から見れば、社員に対してそんなに過剰な要求をしているという認識がそもそもありません。もともと自分がやっていたこと、できたことを同じように要求しているだけです。
脱落した人たちは人たちで、何を言ったとしても、仕事ができない人のいいわけとしかとられないでしょう。
だから、当たり前のことができないんだから仕方がないだろう、と社長は考え続けて、両者の溝は埋まりません。
おそらく、社長を上司に変えても、同じことは起こるでしょう。
むしろ、別に会社でなくても、組織ならどこでも起こることなのかもしれません。
もし、自分が成果を出せていないことに悩んでいたら、一回、周りを見渡して、本当に全部自分が悪いのか、考えてみた方がよいのではないかと思います。そうしないと、今度は貴方だけでなく、貴方の後輩がもっと困ることになるわけですから。
お気に入りの漫画を紹介~ちばあきお「キャプテン」~
ちばあきおさんの「キャプテン」が、この春にコージー城倉さんにより続編が書かれることになったようです。
この「キャプテン」という作品、かなり昔の野球漫画ですが、今読んでも全くふるさを感じさせない上、谷口、丸井、イガラシ、近藤の各キャプテンからはそれぞれ学ぶべきことが多い作品です。
谷口編はとにかく、かげの努力で引っ張るキャプテン、という位置づけです。
特に自分はこの作品は文庫版で初めて読んだのですが、文庫版第1巻はストーリーの最初と最後が、この「かげの努力」というキーワードで綺麗につながっていて、それ単体で完結した作品と見ても違和感がないくらい、きれいに筋の通ったストーリーになっています。
この作品、語りたいことは多々ありますので、引き続き今後考察を書いていきたいと思います。