他人を否定せずにはいられない人の原因は、小学校時代の習慣ではないか
小学校のテストのとき、よく、隣同士で答案用紙を交換して、採点しあうということがあったと思います。
その場面を思い出して下さい。
自分が自信がないまま、答えを3と書いた問題について、交換した隣の人の答えは4でした。
こんな時、先生が答えを読み上げるまでの間、どう思うでしょうか?
テストのように、答えが一つに決まっている問題について、自分と違う答えが正解であるということは、自分の答えが間違っていることを意味します。
だから、テストの結果にこだわる子ほど、自分と違う答えがあると不安で落ち着かなくなります。
そこで、先生から答えが読み上げられるまでの不安を解消するために、その答えが間違っていると確信できる理由を探そうとします。
自分の答えが正しい理由は何度もテスト中に確認しているわけですから、もう一度その確認を繰り返すよりも、隣の人の解答が間違っていることを確認するほうが不安の解消に役立ちます。
そこで、頭のなかで、隣の人の解答をなんとか否定しようとします。
これは子供の考える事としては当たり前だし、何も間違ってはいないと思います。また、テストの結果にこだわることも、むしろ勉強熱心でほめられるべきことでしょう。
問題は、そういう子ほど、こうして、自分の答えと違う解答を否定しないと落ちつかないことが、習慣になってしまうことです。
子供の頃の刷り込みとは恐ろしいもので、その習慣を引きずったまま、大人になってしまうと、色々と困ったことになります。
その人にとって、他人の選択が「正解」であるということは、自分の選択が「不正解」であることを意味します。
しかも、テストの採点ならすぐに何が正解だったのかが示されますが、往々にして、大人になってからは、正解がない問題や、死ぬまで正解がわからない問題に向き合わなければなりません。
だから、自分と違う選択をしている他人について、なんとかその選択が間違いである理由を探して、否定せずにはいられなくなってしまいます。
人によっては、間違いである理由を作ろうと、その人を直接攻撃するかもしれません。
実際、会社の会議でも、自分と違う意見について、揚げ足取りや人格攻撃をして、潰しにかかってしまう人がよくいますが、こういう人は、自分と違う意見を認めてしまうと、自分が間違っていることを認めたことになると思っている。
こういう人と話をすると、結局どっちの意見が正しいかで平行線になってしまい、収拾がつかなくなってしまいます。
実際のところ、この分析がどこまであたっているのかはわかりません。
ただ、こういう困った人のことも、こういう風に、「ああ、この人はまだ頭のなかが小学校のテストなんだなあ」と思うと、その腹立ちもすこしは収まるのではないでしょうか。
※前回記事は多くの人に読んでいただけたようで、ありがとうございました。
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