活字中毒者のなれの果て

小説からビジネス書まで、雑食系の活字中毒者。 最近は仕事&資格取得の必要から法律の勉強中。このブログでは日々学んだことや考えたことについて書いていきたいと思っております。

「キャプテン」のイガラシに学ぶ、能力の高い問題児を扱う方法

 

 

 

「キャプテン」には、近藤というキャラクターが登場します。

並外れた剛速球と長打力を持っているものの、守備が嫌いで、練習もサボろうとする。

しかも先輩に対しての礼儀もなっていない。

リーダーからすると、非常に腹の立つ存在です。

二代目キャプテンの丸井もまた、近藤のことを嫌い、厳しく接します。

ことあるごとに怒鳴りつけては尻を蹴飛ばし、OBになってからも、その姿勢は変わりません。

バッティングの調子がよくて調子に乗っていると怒鳴りつけ、自分の高校の先輩に対する失礼があれば蹴飛ばしています。

 

これに対し、3代目キャプテンのイガラシは、一見、対称的に近藤を甘やかしているように見えます。

合宿では一人だけ近藤のことを特別扱いしてノックを免除するように丸井に進言します。

地区予選では、好きなように投げていいと言います。

自分がキャプテンになってからも、敬遠は嫌だというのに対し、わざわざピッチャー交代までして、自分が代わりに敬遠を買って出ることまでしています。

 

しかし、イガラシの時代、特に全国大会に入ってから近藤は大きな成長を見せます。

 

準決勝では、爪をはがして、痛いのをこらえてリリーフにたち、見事最終回を押さえてチームに勝利をもたらします。

また決勝でも、最後に試合を決めたのは近藤のタイムリーでした。その最後の打席では、一見自分勝手なように見えて、実はチームの状況を冷静に考えた行動をとっています。

 

この二人の違いは、丸井は「べき」で考えているが、イガラシにはその発想がないことです。

 

丸井は野球部員であればこうあるべき、という像を持っています。

先輩を敬うべき、真摯に練習に取り組むべきetc

この「べき」自体は、何も間違ってはいません。

近藤のほうがこれに従うべき、ということは誰もが納得するでしょう。

問題は、近藤がこの「べき」に従うことができないし、無理に従わせようとするとすぐにやる気をなくしてしまって戦力にならない、という現実に対し、どう向き合うかでした。

 

丸井は、近藤に対し、あくまで「べき」を求め続けます。

 

それに対しイガラシは、あくまで、野球部がその時点の戦力で全国制覇を成し遂げるにはどうするか、という観点でしかものを考えていません。

そのためには、近藤が、色々と指図をしてもやる気をなくすだけ、ということを前提に、貴重な戦力である近藤をどう使いこなすか、ということを考えているだけです。

 

イガラシは、敬遠を買って出た試合で、なぜそこまでするのかについて、こういっています。

「ただでさえピッチャーは気分で左右されやすいってのに、しかも近藤じゃねえか」

 

つまり、イガラシは、別に優しいからこうするわけではなく、近藤の力が必要で、その力を発揮させるにはどうすればいいか、という問題に対し、合理的な行動をとっているにすぎません。

実際、イガラシは、別に近藤の能力が発揮されなくてもいい場面、例えば新入生テストの手伝いやバッティングピッチャーをさせる時は、皆の前で名指しでバントが下手と言ってみたり、記者の前で球が遅いと言ってみたりと、近藤に対してもかなり辛辣です。

 

丸井がキャプテンの時、作戦のことで丸井とイガラシが対立したことがあります。

このとき、イガラシの作戦に好き嫌いから反対する丸井に対し、イガラシは「勝負ってもんにすききらいをはさむもんでもないでしょうが」と言い返しています。

 

まさに、この近藤をめぐっても、好き嫌いを排して行動するかどうかが、うまく扱えるかの分かれ目なのでしょう。

 

自分がチームを率いる立場になってみると、一人くらいは、この近藤のような、能力は高いが問題児という部下が現れます。

そういうときは、このようにイガラシのように行動しなければ、と思うのですが、どうしても実際にはなかなかうまくいかないもので、ついつい色々と言ってしまいますが、自戒を込めて書かせていただきました。

※むしろ、中学生なのにイガラシがここまで人間ができていることが驚きなわけですが。

 

ところで、現在、グランドジャンプで連載されている「プレイボール2」においては、現在、丸井の前のキャプテンである谷口が、同じような問題児として描かれている井口をどう使うかがメインで話が展開されています。

 


 

ここまで、谷口と近藤との絡みはなく、そのため、谷口がこういった問題児をどう扱うか、というのは、「キャプテン」「プレイボール」を通じて殆ど描かれていません(強いて言うなら、「プレイボール」で、入部初日の井口に対し注意するシーンくらいでしょうか)。

「プレイボール2」の作者であるコージー城倉さんが今後、この問題をどう描いていくか、注目したいところです。

 

※前回記事は多くの人に読んでいただけたようで、ありがとうございました。

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他人を否定せずにはいられない人の原因は、小学校時代の習慣ではないか

f:id:takayuki86:20170422163825j:plain小学校のテストのとき、よく、隣同士で答案用紙を交換して、採点しあうということがあったと思います。

その場面を思い出して下さい。

 

自分が自信がないまま、答えを3と書いた問題について、交換した隣の人の答えは4でした。

 

こんな時、先生が答えを読み上げるまでの間、どう思うでしょうか?

 

 

テストのように、答えが一つに決まっている問題について、自分と違う答えが正解であるということは、自分の答えが間違っていることを意味します。

 

だから、テストの結果にこだわる子ほど、自分と違う答えがあると不安で落ち着かなくなります。

 

そこで、先生から答えが読み上げられるまでの不安を解消するために、その答えが間違っていると確信できる理由を探そうとします。

 

自分の答えが正しい理由は何度もテスト中に確認しているわけですから、もう一度その確認を繰り返すよりも、隣の人の解答が間違っていることを確認するほうが不安の解消に役立ちます。

そこで、頭のなかで、隣の人の解答をなんとか否定しようとします。

 

これは子供の考える事としては当たり前だし、何も間違ってはいないと思います。また、テストの結果にこだわることも、むしろ勉強熱心でほめられるべきことでしょう。

 

問題は、そういう子ほど、こうして、自分の答えと違う解答を否定しないと落ちつかないことが、習慣になってしまうことです。

子供の頃の刷り込みとは恐ろしいもので、その習慣を引きずったまま、大人になってしまうと、色々と困ったことになります。

 

その人にとって、他人の選択が「正解」であるということは、自分の選択が「不正解」であることを意味します。

しかも、テストの採点ならすぐに何が正解だったのかが示されますが、往々にして、大人になってからは、正解がない問題や、死ぬまで正解がわからない問題に向き合わなければなりません。

 

だから、自分と違う選択をしている他人について、なんとかその選択が間違いである理由を探して、否定せずにはいられなくなってしまいます。

人によっては、間違いである理由を作ろうと、その人を直接攻撃するかもしれません。

 

実際、会社の会議でも、自分と違う意見について、揚げ足取りや人格攻撃をして、潰しにかかってしまう人がよくいますが、こういう人は、自分と違う意見を認めてしまうと、自分が間違っていることを認めたことになると思っている。

こういう人と話をすると、結局どっちの意見が正しいかで平行線になってしまい、収拾がつかなくなってしまいます。

 

実際のところ、この分析がどこまであたっているのかはわかりません。

ただ、こういう困った人のことも、こういう風に、「ああ、この人はまだ頭のなかが小学校のテストなんだなあ」と思うと、その腹立ちもすこしは収まるのではないでしょうか。

 

   

 

※前回記事は多くの人に読んでいただけたようで、ありがとうございました。

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自分が仕事ができないと思っている人に読んで欲しい、ブラック企業は、なぜ生まれるのかについての仮説

サッカーでは、統計的に、ホームチームの勝率は6割を超えているということです。

逆に言えば、アウェーのチームというのは、ホームでの実力を全ては発揮できないということでしょう。

 

この事を知らずにホームでばかり試合をしているチームは、本当はこのアドバンテージのおかげで勝てているだけなのに、いつの間にか、自分たちは強豪チームであるかのように勘違いをしてしまうでしょう。

また反対に、自分のホームを持たず、いつも相手のホームで試合をしているチームは、本当は実力があったとしても、自分に実力がなく、もっと練習しなければいけないと考えるでしょう。

 

これと同じことは、会社でも起こりえます。

 

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会社の規模にもよりますが、わかりやすくするために、例えば、元々は社長が一人でやっていた零細企業を考えてみます。

その社長は絶対的な権限がある。何しろ一人なのですから、誰も文句を言う人はいません。

それに、稼ぐのも一人の力なのですから、自分が仕事をしやすい環境にして、最大限仕事ができるようにして、最大限自分のパフォーマンスを高めることは、仕事の進め方としても正解でしょう。

こうして、社長は、事務所内でのルール、仕事の段取りの仕方を整え、継続的におつきあいのできる相性のいいお客様を開拓し、自分が最大限のパフォーマンスを発揮できる最高の環境を得ました。

ここで、社長のホームグラウンドの完成です。

 

ここに、そういった状況を知らない新入社員が入ってきます。新入社員からすると、社内の環境も、仕事の進め方も、お客のこともわからない中で仕事を進めなければなりません。いわば、完全アウェーの状態です。

個々の相性の問題はありますが、よほど相性がよくない限り、どんなに慣れても、所詮アウェーであることは変わりがありません。

アウェーである以上、100%のパフォーマンスは発揮できません。

 

このことに、もし社長が気づいていないと、往々にしてブラック企業化という悲劇が起こります。

 

社長は、自分に劣るパフォーマンスしか発揮できない社員に、こう言います。

俺はこれだけできるのに何でできないんだ!
会社があわない?甘えるな。みんな最初からあう仕事なんかあるものか。自分が仕事にあわせることを考えないでどうする。学生じゃないんだぞ!
 

さらにたちが悪いのは、この社長の言っていることの方が「正論」ではあることです。

給料をもらっている側である新入社員の側が仕事のしにくさは我慢する方が筋です。

責任感の強い人ほど、こう思い込んで、自分で自分を追い詰めてしまいます。

 

仮にその人が耐えて慣れてきたとします。

そして、そういう人は、100パーセントの力が出せないなら、120パーセントの時間と労力を投入して何とか乗り切ろうとします。

 

それで問題が万事解決か、というとそうではありません。

さらに次の人が入ってきた時に、その人が同じように耐えられるかはわかりません。

しかも今度は、前の人は耐えて慣れた、という実績がありますから、後から入った人は、さらに追い詰められてしまいます。

その人が耐えてもさらに次に入った人が・・・・・・と、この循環というのはいったん始まってしまうとなかなか止められません。

 

こうなると、ブラック企業化の始まりです。

 

本来組織を効率的に運営しようと思ったら、組織の構成員全体のパフォーマンスを最大化する必要があるところ、たった一人の社長のために最適化されている。そのために社員の労働効率が悪いわけですから、長時間労働でカバーするしかありません。

 

そして、それについていけない人、あわせられない人は、結果を残せず、能力不足という評価を受けて脱落していくことになります。

 

社長から見れば、社員に対してそんなに過剰な要求をしているという認識がそもそもありません。もともと自分がやっていたこと、できたことを同じように要求しているだけです。

脱落した人たちは人たちで、何を言ったとしても、仕事ができない人のいいわけとしかとられないでしょう。

だから、当たり前のことができないんだから仕方がないだろう、と社長は考え続けて、両者の溝は埋まりません。

 

おそらく、社長を上司に変えても、同じことは起こるでしょう。

むしろ、別に会社でなくても、組織ならどこでも起こることなのかもしれません。

もし、自分が成果を出せていないことに悩んでいたら、一回、周りを見渡して、本当に全部自分が悪いのか、考えてみた方がよいのではないかと思います。そうしないと、今度は貴方だけでなく、貴方の後輩がもっと困ることになるわけですから。

   

 

お気に入りの漫画を紹介~ちばあきお「キャプテン」~

ちばあきおさんの「キャプテン」が、この春にコージー城倉さんにより続編が書かれることになったようです。

 

mainichi.jp

 

この「キャプテン」という作品、かなり昔の野球漫画ですが、今読んでも全くふるさを感じさせない上、谷口、丸井、イガラシ、近藤の各キャプテンからはそれぞれ学ぶべきことが多い作品です。

 

谷口編はとにかく、かげの努力で引っ張るキャプテン、という位置づけです。

特に自分はこの作品は文庫版で初めて読んだのですが、文庫版第1巻はストーリーの最初と最後が、この「かげの努力」というキーワードで綺麗につながっていて、それ単体で完結した作品と見ても違和感がないくらい、きれいに筋の通ったストーリーになっています。

 

 

この作品、語りたいことは多々ありますので、引き続き今後考察を書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

本から学ぶヒントも、本の中にあった。

最初の記事ということで、自分の読書について大きな影響を受けた本を紹介します。

 

元々子供の頃から本は好きだったので、ジャンルを問わず、いろいろな分野の本を読み漁ってはいました。

しかし、一方で、本を読んで勉強した気になっても、どうそれを自分の生活に活かしていいかわからない。

わからないからそもそも本を読んでもただ読むだけで、何も生かせない。大学の勉強をしてもなんの役に立つのかもわからない、だからそもそも勉強する気が起きない、という悪循環にはまっていました。

そんな中で、ちょうど新入社員だった頃に読んだのが、この本でした。

 

この本では、アナロジー思考について解説されています。

アナロジー思考とは、日本語で言うと「類推」のことをいい、一見全く異なる分野、世界の発想を借りてきて、自分の必要とする分野に活かすという思考法のことを言います。

この本の最終章では、まさに「本やセミナーで学んだことが実践できない理由」まで書かれているんですが、それがまさに自分でした。

 

考え方さえ身につけば、どんな本からでも役に立つ学びができる。

何しろ、全く違う分野からでも発想法を持ってこれるわけですから、どんなジャンルの本であっても、何かしら自分の役に立つ可能性がある。

この事がわかってからは、読書も、何かしら自分の役に立たないか、何か自分の悩みのヒントになることはないか、そういった視点で行うように自然となっていきました。

 

その結果、読書量は変わりがなくとも、本を読んでいて思いつくこと、考えることは倍増し、読書の質が飛躍的に増したように思います。

 

特に、今は仕事のために、全く縁のない世界だった法律を勉強しなければいけない状況になっているんですが、その場面でもこのアナロジー思考は相当役に立っているように思います。

 

このブログでは、今後も、そういった本から学んだことを書いていきたいと思いますので、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

 

 

ご挨拶

この度、ブログを新しくはじめさせていただきました。

 

このブログでは、日々の生活や読書の中で考えたこと、学んだことについて書いていきたいと思います。

 

よろしくお願いいたします。