活字中毒者のなれの果て

小説からビジネス書まで、雑食系の活字中毒者。 最近は仕事&資格取得の必要から法律の勉強中。このブログでは日々学んだことや考えたことについて書いていきたいと思っております。

武田家の滅亡の原因から、上司のするべきことについて考えてみる

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最近、歴史の本を多く読むようになっています。

 

この本の中にあった、武田の滅亡の原因、というのが、勉強になるとともに、改めていろいろと考えるきっかけになりました。

 

歴史好きの方には常識と怒られるかもしれませんが、武田の滅亡は、長篠の戦いで負けたから、というだけではどうもないようです。

長篠の戦いは1575年、滅亡が1582年なんで、実は結構持ちこたえている。

むしろ、直接的な引き金になっているのは、織田信長から攻められていた、高天神城という城を見殺しにしたことが直接的な原因だったといわれているようです。

 

この、城を見殺しにするという判断が間違っていたのかはわかりません。

当然、戦略的に、不利な戦いには戦力を割かない、むしろ勝てるところの戦いに兵士を集中する、というのは、別に間違ってはいません。時には、非情になって、捨てるべきところを捨てるという判断も必要だったでしょう。

 

しかし、結果的には、これが致命的になりました。

見殺しにしたことで、「勝頼に従っていても、もう守ってはもらえない」そんな声が各地から上がり、国人衆が命令に従わなくなった挙句に、最後には、一門の武将に裏切られたことによって武田家は滅亡してしまいました。

 

このようなことは、実は現代でも起こっているのではないかというのが、今回の話です。

 

例えば、担当者に非はなかったけれども、会社の上層部で急な方針変更があって、お客さんに謝らなければならないとします。

その場合、矢面に立たされるのは担当者です。

お客さんからの文句や非難は担当者に集中します。

担当者は、自分に非がなくても謝らないといけない。

こういう時、しっかりフォローをしてあげればいいのですが、フォローをしないばかりか、リーダーが責任逃れをして、担当者を見殺しにするような言動をしたら何が起こるか。

 

担当者を見殺しにすることで、リーダーの面子は保たれるかもしれません。自分に間違いがないことにしないと、今後、部下が自分に従わないかもしれない。それなら、自分は間違ってなくて、担当者のせいにしてしまったほうがいい、そういう風に考えることもあるかもしれません。

しかし、いわれのない責任を負わされた担当者や、それを周りで見ているほかの部下はどう思うでしょうか。

上司に従っていても、結局自分が責任を取らされるなら、いう通りにしたくない。結局頭を下げることになるのは自分だし、責任を取らされるのも自分。そう思って、いうことを聞かなくなるかもしれない。

そこまでいかなくても、仕事を早く進めてしまえば、それだけ、その進めていた分、責任を取らされたり、無駄な仕事になってしまうリスクが高まる。それを避けるために、ぎりぎりにならないと仕事に手を付けない。そんなことも起こるかもしれません。

   

これでは、仕事の効率は落ちるばかりで、生産性も士気も上がりません。

結局、上司が責任を取らずに、部下を見殺しにするようなことをしてしまうと、後々自身のマネジメントの難しさという形で自分に返ってきてしまいます。

 

しかもこの問題、最後に起こる現象だけ見ると、指示してるのに指示に従わない部下、という現象なんで、一見部下のほうだけに問題があるように見えてしまいます。上司から指示されているのに仕事をしない、それは部下が悪い。非の打ち所のない正論です。

しかし、実際には、その原因は、上司の側が作っているのかもしれない。そもそも最初に部下のせいにしてしまってるわけだから、この時だけ自分のせいと気づく、というのは土台無理な注文です。

部下がいうことを聞かないと悩んでいる方は、もしかしたら、自分が勝頼のように部下を見殺すことをしていないか、一度自問自答してみたほうがいいのかもしれません。

 

幸い、今は戦国と違って、見殺しにしないのは簡単です。戦国大名は、城にこもっている部下の代わりに討ち死にすることはできませんが、上司は部下の代わりに責任を取ることはできるので。

 

 

かくいう自分も偉そうなことを書いていますが、ついつい責任逃れをする誘惑に駆られてしまうので、気を付けなければと、自戒をこめて。

   

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会社では、褒められなくなることを目指せ

仕事をしても感謝されたり、褒められたりすることがなくなった。

そんな悩みを持つ方は多いのではないかと思います。

確かに、仕事をしても礼も言われず、褒められもしないのは、あまり気持ちのいいものではありません。

けれども、実は、褒められない人のほうが職場で評価されていることもあるし、むしろ、それを目指したほうが、やがて自分にいいことがある、今回はそんなお話です。

   

例えば、子供であれば、小学校1年生が足し算ができたら褒められるでしょう。けれども、小学校6年生になって、足し算ができたからと言って褒められるということは普通はありません。

それは、小学校1年生なら、足し算ができないかもしれないと思っていたけど、できたから素晴らしい、それに対し、6年生だと、足し算はできて当たり前だから、特別なことではない。そう思われているからでしょう

そう、同じことをやっても褒められる人と褒められない人がいるのは、それぞれの能力や経験に応じ、できて当たり前と思われているラインが違うから。

だから、実は、今までと同じようにやっているのに、礼を言われなくなったということは、もともとの基準が上がって、このくらいはできて当たり前、と思われているからです。

しかも、学校と違って職場では、小学校の学年のように明確な基準があるわけではないので、それが周囲との差につながってきます。

だから、例えば同期なのに扱いが違う、同じ仕事をしても自分は褒められないけど周りは褒められてるというときは、じつは、自分のほうがより期待されているから、と

 

もともとの期待されているラインが低い社員と高い社員、どっちがその後重要な仕事を任されるか、といったら、当然高い社員でしょう。

 

そう、つまり、褒められない=期待されている=その後重要な仕事が回ってくる、という等式が成り立つ。

だから、働く側としては、自分の基準となるラインを上げる努力をすればいいい。

重要な仕事を任されて、その仕事をこなして当たり前、と思われるようになったら、さらに重要な仕事が回ってくる。だから、自分の今やってる仕事は自分ならできて当たり前、と周りに思われること、つまりは褒められも、感謝されもしなくなることを目指せばいい。

 

 

といいつつ、自分が人に仕事を振る側になると、ちゃんと評価してあげないといけないというプレッシャーはなかなか重いもので、結局褒めるのが一番安直なやり方になってしまうわけですが。

   

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若い人が我慢が足りずにすぐやめるのは危険な兆候である

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 よく、若い人は我慢が足りないといわれます。

 確かに、昔なら我慢していたことでも、我慢せずに不満を言ったり、やめてしまう人が多くなっているのは確かでしょう。

 

 しかし、それは世代の問題なのか? というと、かなり疑問です。

 むしろ、世代の問題ではないのに、そういう問題として片付けてしまうこと自体、実は問題なのではないかと思うわけです。

 

 会社というのは、上手くいっているときは、社員が内心で不満に思っていても、表に出てきません。

 それは何も、我慢強い人が多いからというわけではなく、不満はあっても、うまくいっているのならば、それを表に出さずにやり過ごし、上手くいっている恩恵にあずかる方が得だからです。

 

 この裏返しで、会社がうまくいかなくなると、不満が表に出るようになってきます。別に、それは、社員が我慢強いかと関係なく、我慢する利益がないのに我慢することに意味がないからです。

 しかも、こういう時、不満は、優秀な社員ほど抱きやすい。

 ほかに転職しても十分やっていけるほど優秀な人は、我慢するインセンティブがまるでありません。

 一方で、会社にしがみつかざるを得ない人というのは、そんな状況であっても、ぎりぎりまで我慢するしかありません。

 その結果、優秀な人ほどやる気を失い不平分子化して、最終的には退職するという行動に出てしまいます。

そして、残る人は、内心ではその人のことがうらやましいものの、表立ってそうもいえずに、やめた人の悪口で盛り上がることになります。

 

 さらに厄介なのが、トップの立場からは、その悪口が本当のように錯覚してしまうことです。

 やる気を失って不平分子化していれば、上から見れば、いくら優秀であっても、そうは見えません。また辞めてしまえば反論の機会はありませんから、それを正す機会もありません。

 その結果どういう結論に達するかというと、お決まりの結論です。

 昔は皆このくらいの事で不満をもってやめたりしなかったのに、今の若い人は辛抱が足りない。こう思考停止して、会社に問題はないと結論付けてしまいます。

  実際は、我慢させるだけのインセンティブを会社が提供できていないのが原因なのに、そこに目が向かなくなります。

 

 こうなると、優秀な人が抜ける→業績悪化→さらに優秀な人が抜けるのスパイラルにはまってしまいます。

 

 これを止めようとするには、本当は不満の声に耳を傾けるよりないのでしょうが、それができるならこういう状態にはならないわけで、結局こうなりそうな兆候を見つけたら、社員としては、なるべく早く逃げだす方法を考えるしかないのでしょう。

 これが続くと、ワンマン社長+従業員が定着しないブラック企業の出来上がりです。

 

 かくいううちの会社も、優秀な方が次々やめているのですが、社長が、「うちの会社にいた人は、うちにいたときは全然やる気出さなかったくせに、やめてから皆活躍してる。きっとうちの会社の教育がよほどいいんだろうね。それなのに皆恩知らずばかり」と常々言っていました。

 

 そんなわけで、自分も、下のサイトに既に登録して、転職しようかと考え中です。

 

 

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「なるべく」という言葉が、業務の効率化を妨げる

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上司が部下に指示を出す時、「なるべく」というのは便利な言葉です。

 

例えば書類の作成を指示するとき、「なるべくいいものを」「なるべく早く提出して」といえば、指示したような体裁は取れてしまいます。

本来「なるべく」というのは、無理であればできる範囲でいいよ、という意味も含みますから、むしろ部下の都合に配慮しているようにも見えて、無理でも何でもやれ、という指示よりも、むしろ部下思いのように見えます。

 

しかし、実際には、この言葉を多用していると、かえって部下の非効率な業務を増やし、往々にして長時間労働を招いてしまいます。

 

その言葉をかけた結果出来上がってきた書類が必要とするクオリティに達していなければ、当然、注意の上、やり直しを命じるよりありません。

 

部下の立場からすると、誰でも怒られたり評価が下がったりするのは嫌ですから、次からは、「なるべくいいものを」といわれたら、結局、無理してでも完璧なものを、なるべく早く作成しようとするしかありません。そのため、結局、本来どうでもいいところまで気を配って時間をかけて、結局長時間労働を招くことになってしまいます。

 

ところが、そうやって時間をかけていると、今度は、「なるべく早く」といっていたのに、想定しているよりも時間がかかっているので、催促せざるを得なくなってしまいます。

その結果、結局部下としては、残業してでも早く仕事を完了させなければならず、労働時間の長時間化を招いてしまいます。

しかも、このことに、上司は通常気づいていません。

むしろ、最初に「なるべく」といって、そこまで無理しなくていいといっているのに、なぜ残業してまでやるんだろう、と不思議に思いますし、それが続くと、自分の指示の問題には気づかない今ま仕事が遅い、無駄な残業が多いと叱責することになります。

 

この状況が悪化すると、サービス残業や仕事の持ち帰りといったブラック企業化が始まってしまいます。

 

そうはいいつつも、実際に部下に指示を出す側になってみると、わかりやすい指示を出すというのは難しいもので、私自身も、色々と試行錯誤をしながらやっているところです。

そんなことで悩んでいる時に、ふと、2年ほど前に読んだ本が、Amazonの読み放題サービスに入っていたのを見つけたので、読み返してみました。

 

 以前に読んだ時にはあまり気にしなかったのですが、この本、単なるコンサルタント向けの知的生産術、という以外にも、このようなマネジメントで悩む人にとっても、非常に有用な内容が多く含まれています。

特に、上で書いたような、「なるべく」という指示について、「ダメな指示の典型」、「もっとも避けなければならないのが、『なる早で』という指示」などとした上で、「指示は『行動』でなく『問い』で出す」というポイントを提示してくれます。

 

私も早速試してみましたが、これを実践しようと思うと、自分自身がよくよく考えなければいけない。何が問題なのか、ということがわかっていなければ、適切な問いを投げかけることもできません。

逆に言えば、それまで、自分自身よくわかっていないまま指示を出していたということでもあるわけで、反省しなければならない、と改めて感じさせられました。

 

そういえば、この本には、こんな一節がありました。

しかし残念ながら、こういう指示を出す管理職やリーダーが少なくない。おそらく本人自身がそういうブルドーザーのような非効率な仕事をやってきたのでしょう、典型的な「頑張っているのに評価されない」とグチをこぼすタイプです。こういう人は自分そういうつらい経験をしてきたので、同僚や部下にも同じことを強いるというとても困った傾向があります。

 

実に耳の痛い言葉ですが、改めて、自分の頭で考える、ということの重要性を実感させられる本でした。

自分はコンサルではないから関係ない、と思っていた管理職の方などにも役立つ内容が含まれていますので、ぜひご一読されることをお勧めいたします。

 

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業務効率化を進めたいなら、業務改善という言葉を使ってはいけない

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最近、働き方改革がいわれ、無駄な業務を削減するなどして、業務の効率化を進めよう、という動きが進んでいます。

業務の効率化そのものに対して表立って反対する人というのは、あまりいません。

 

しかし、実際に、業務の効率化を進めようとすると、なぜか無駄な業務に見えても本当は大事なんだ、そうやって手抜きをしようとするなんてとんでもない、それで何かトラブルが起きたらお前が責任取れるのか、など、抵抗勢力の反対にあって頓挫してしまうということが多いのではないでしょうか。

 

まず、なぜこういう現象が起こるかについて考えてみます。

もともと、トヨタの「カイゼン」のように、無駄を省き、効率化を推し進めるのは、むしろ日本企業の専売特許でした。

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だから、今会社の上層部にいる人達は、無駄は悪、という価値観自体はすでに持っています。だから、一般論として無駄をなくしましょう、というと、諸手を上げて賛成はしてくれます。

 

ところが一方で、昔から無駄は悪、という価値観を持っているということは、自分のやってきたことを無駄だったと言われたくない、ということでもあります。

この意識が、業務改善への抵抗勢力を生み出します。

 

「改善」という言葉は、悪いものを、いいものに改めるという意味を含んでいます。

そのため、業務改善のために無駄な仕事をなくします、といってしまうと、元々会社にいた人たちにとっては、それまで自分たちのやってきた仕事が無駄なものだった、悪いものだったといわれることでもあります。

 

そうやって自分の仕事を否定されれば当然面白くない。

だけれども、まさか面白くないから反対とはいいません。そこで、反論できないような理由を見つけてきます。性質が悪いのが、その人達は実際に長くその仕事をやってきていますから、もっともらしい理由は説明できますし、仕事を減らす、ということには、手抜きと文句をつけることは常にできます。

また、今までそれなりに上手く言っているやり方を変えるということは、リスクを伴うのも事実ですから、その責任を誰が取るのか、という問題も付きまとってきます。

そうやって、実際には無駄な仕事であっても、無駄だからやめましょう、というと、それを認めたくない勢力の抵抗にあって、うまくいかなくなってしまいます。

 

だから、業務の効率化を進めていこうと思ったら 、間違っても、「業務改善」という言葉は使ってはいけません。

自分は、そういう時、「改善」ではなく、「適応」という言葉で説明するようにしています。

たとえば、先日も、会計管理に、【会計ソフトfreee(フリー)】 を導入しよう、という提案をしたのですが、この時も、それまでのやり方を否定するものではない、ということはしつこく説明しています。

「今までは、会計ソフトを使うにしても結局入力が面倒だったり、価格が高かったりとかえって高コストになってしまうので、税理士に丸投げのほうがかえって楽でした。でも、今は技術も進歩して、無料でクラウド会計ソフトが導入できるようになったんですよ。だから、技術の進歩に適応するために、新しく取り入れませんか」と言った風に。

 

こうやって、それまでのやり方を認めてあげるというだけで、反対していた人たちも賛成に回ってくれるのだから、不思議なものです。

よく「老害」の反対にあって業務改善が進まない、といった話を聞きますが、だいたいそういう老害といわれる人たちは、自分のそれまでの仕事を否定されるのを非常に嫌うので、現状をいったん肯定した上で、状況が変わった、ということを説明してあげる、ということが非常に有効なようです。

 

職場の改善を妨げる「老害」にお困りの方は、是非試してみてください。

 

 

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管理部門の人間こそ、外部に目を向けるべきである

 

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現在、法務を中心にしつつ、管理部門全般の仕事をしています。

もともとは企画の仕事をしていたのですが、会社が大きくなってきたので、管理部門の人間を一人置こう、ということで管理部門に回ってきました。

 

管理部門というと地味ですが,非常に神経を使う仕事。

この仕事をやってみて思うのが、この仕事は、企画とは正反対で、他と同じであることこそ価値があり、だからこそ、常に情報を収集していなければいけない、ということです。

 

何か会社で企画をするとき、他社を参考にするということはよくあります。

しかし、参考にするとしても、それをそのまま真似てしまったのでは、特許や商標、著作権といった、法的な問題に発展しかねませんし、そこまで行かなくても、他人の真似をしただけでは、オリジナルとの競争に勝つのは難しいでしょう。だから、人真似というのはあまり歓迎されません。

 

しかし、直接お客を相手にしない管理部門では、別にそうではありません。少なくとも、公開されているノウハウや書式であれば、社内で使用することに問題はありません。

いや、問題がないどころか、他からくる人を受け入れるという観点からは、中身がいい悪いよりもむしろ、他と同じであることによって、他社から人材を獲得しやすくなるというメリットも有ります。また、役所等の外部に書類を見せる必要が生じた時も、他と同じような書式、ルールであることで、余計な説明がなくとも話を通しやすくなります。

むしろ、前回記事の話ではないですが、一から「自分で考えて」仕組みを作ろうとすると、様々な社内調整の結果、意図せず仕組みがガラパゴス化して、他から来た人を混乱させる結果になってしまいかねません。

 

だから、もちろん自社の状況に応じてやり方を変えることは必要だけれども、少なくとも、周囲の状況や、スタンダードなやり方が何なのか、ということはわかっていないと会社全体に迷惑がかかってしまいます

 

そのため、実は外部と接触する機会のない管理部門の人間こそ、積極的に社外に目を向けて、情報を得るようにしておかないといけないのでは、と思うようになりました。

 

たとえば、自分は最近出来たばかりのサイトですが、Manegy[マネジー] というサイトを利用しています。

 

このサイト、色々な機能があり、たとえば専門家への質問を見ると、自分が悩んでいるのと同じような悩みがすでに質問されていたり、自分で質問することもできたりと、非常に役に立ちます。

 

中でも一番役に立つのが、専門家テンプレート機能です。

書式を探すのによくネットで検索するのですが、ネット上の書式というのは誰が作ったかもわからないし、よくわからずに使うのは怖い。

その点ここに掲載されているテンプレートは、弁護士、税理士、社労士といった専門職の方々が、自分の名前を出した上で公表しているものです。そのため、非常に信頼度が高い。

自分も、今度株主総会があるので、総会用の委任状の書式をダウンロードさせていただきましたが、これなどは、特に直さなくてもそのまま社名だけ入れれば使えて、非常に役に立ちました。

 

書式まで使わなくとも、無料登録してトピックを読むだけで、ポイントを貯めて商品と交換できるようなので、同じく管理部門でお仕事をされている方は、是非お試し下さい。

 

 

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上司が部下になんでも「自分で考えろ」といってしまうのは、自分で考えていなかったことのあらわれである

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たとえば、車が右側通行か左側通行か、という問題を考えてみます。

もちろん、どっちがいいのか、というのは、厳密に考えればあるのかもしれません。車の運転席の位置、右折と左折の時の効率、乗り降りのしやすさ等。

 

しかし、それより重要なのは、どちらかに統一されている、ということです。

もし、各運転者に対し、道の右側を通るか左側を通るののどちらがいいか、「自分で考えろ」とだけいって判断を丸投げしたのでは、おそらく交通は大混乱してしまうでしょう。

 

だから、運転者に委ねるのではなく、国のほうで左側通行に決めてしまう。

この時、別に右側通行が間違っていて左側通行が正しい、ということではありません。ただ、どちらかに決まっていないと不便だから、便宜的にそう決める、というだけのことです。

 

これは「調整問題」といってたまたま↓の憲法の本を読んでいるときに出てきた話ですが、このようなことは、会社でもよく起こるし、そのことを認識していないと、コミュニケーションギャップが生まれるのではないか、という仮説です。

 

会社でも、たとえば書式をどうするか、業務フローをどうするかなどのルールは、実際に何が効率的かというよりも、とりあえず決めておかなければ非効率なので、とりあえずこう決めてしまいましょう、というルールがたくさんあります。

 

ただ、問題は、会社でルールを決めるとき、往々にして、「どっちでもいい」は禁句になりがちだということです。

細かいルールやマニュアルの策定をするとき、実際にはどちらでもいいようなことであっても、提案をする側としては、どちらかに決めた上で提案しなければなりません。

そして、上の人間や他の部署に提案の説明をしようとするとき、「どっちでもいい」とはいえません。当然十分に検討して提案した、という風に見せなければいけませんので、どちらでもいいようなことであっても、何かしらこじつけに近い適当な理由をつけてでも、自分の提案が他よりも優れている、と意見を表明しなければなりません。

 

だから、たとえば、仕事の進め方を決める際も、提案する側は、「どうでもいいことだけれど」などとは前置きせず、こうするのが一番仕事が速いです、といってマニュアルを提案して、特に異議が出なければそのマニュアルが「一番優れた」ものとして受け入れられ、それが社内ルールとして定着していきます。

 

そして、自分で考えることなく、ただ人のいうことに従っているだけの人間にとっては、そのことはわかりません。適当な理由付けを鵜呑みにして、「これが一番優れたやり方なんだ」と盲信するだけになっていまいます。

そのような人間が上司になって後輩を指導する立場になった時に、「自分で考えろ」ばかりいって、後で文句をつけるという問題が生じてしまいます。

 

上司の立場からすると、今使っているマニュアルに書かれた仕事の進め方は、一番優れたものを採用していると信じています。

だから、部下が自分で考えて、一番いいと思うやり方をすれば、自ずといま採用しているのと同じやり方にたどり着くはずだと信じてしまいます。

このような上司は、「自分で考えて、最も優れたやり方である今の会社と同じ結論に到達せよ」という意味で、「自分で考えろ」と言ってしまいます。

 

ところが、新しく入った部下の立場からすると、そのようなことはわかりません。

先の車の例でいえば、左側通行が優れているのか右側通行が優れているのかを自分で考えろ、といわれても困ってしまいます。

 

ところが、上司の立場からすると、よく考えれば、今のやり方にたどり着けると信じていることの裏返しで、辿りつけないということは、部下がよく考えていないことであると一方的に決めつけてしまいます。

そして、よく考えていない人を叱責するのは当然のこととして叱責するので、部下からみた現象としては、上司が「自分で考えろ」といっておいて、実際に部下が自分で考えて行動すると後で文句をつける、という行動に出ると、不満を持たれることになってしまいます。

 

上司が本当に自分で考えたことのある人間なら、実は自分で考えてもわからないことがあるということはわかっています。

車の通行について、右側通行がいいか左側通行がいいかということは、皆の意見が一致するなどということはありえませんし、自分でその問題を本当に考えたことがあれば、皆の意見が一致するわけでないこともわかります。

だから、初めから明確に指示しておかなければ知らない人にはわからない、ということが容易に想像できます。

だから、「自分で考えろ」というべきこととそうでないことの峻別が容易にできます。

 

だから、上司の立場になった時、考えてもわからないことを「自分で考えろ」といってしまう原因は、実は、それまで自分で考えずに、実は適当にすぎない提案や、すでに決まったことを鵜呑みにしていただけではないか、ということを、ふと考えさせられたので、自戒を込めて。

 

   

 

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