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活字中毒者のなれの果て

小説からビジネス書まで、雑食系の活字中毒者。 最近は仕事&資格取得の必要から法律の勉強中。このブログでは日々学んだことや考えたことについて書いていきたいと思っております。

先輩・上司は、部下の「教育」をやめて、自分を中心に話すべきである

 

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今年の4月から、部下を持つ身になり、何となく上司としてのあり方を考えさせられる機会が急に増えました。

 

まだ1ヶ月で何もわかっていない状態ですが、そんな中で思ったことは、「上司は、「教育」は自分の仕事ではないと認識するべき」ということです。

 

初めて部下を持つ立場に立ってみて、最初の1週間は張り切って部下を「教育」しようと思って接していたのですが、自分自身、その時の言葉遣いや考え方にどうも違和感が拭えない。

慣れの問題かと思ったのですが、どうもそうではない。もっと根本的なところに問題があるうような気がしました。

 

そこで、ふと気づきました。

 

「教育」というのはあくまで相手を変えようとする行為です。

そのため、スポットライトが当たるのはあくまで相手の方です。

そのため、何かを話す時の主語は「君が」になります。

だから、こういう言い方になります。

 

「君(の仕事)が、これじゃだめだよ。」

 

しかし、そこに、「先輩・上司である自分」は登場しません。

その言葉は、しばしば、単に上司である自分が気に入らないだけだったり、あるいは自分のほうが間違っているのを、全て相手の問題にすり替えてしまうことができるという便利さを持っています。

しかも、そう言っておけば、まず反論は返ってきません。それに対していや、貴方のほうが……などと言い返す人はまずいないでしょうし、いたとしても、「お前の為を思って言ってやってるんだ。俺のことは関係ない」で終了です。

 

これに慣れてしまうと、上司の側は、一方的に相手を非難することで自分の問題をすべて相手に押し付けてしまうことができますし、部下の側は部下の側で、一方的に(しばしば自分は悪くないのに)怒られる、という力関係が成立してしまいます。

 

この状態で一番不幸なのは、むしろ部下よりも上司の側です。

自分が間違っていても反論されない、という経験は、いつしか全能感を呼び起こします。

論理的に説明しなくとも他人にいうことをきかせることができる、という環境は、論理的思考力やコミュニケーション能力も蝕みかねません。

この状態になれてしまうと、自分自身が仕事のできない人になりかねません。

 

また、部下が不満を持っていると、せっかくお前の為を思って言ってるのに、と、余計なストレスのもとにもなります。

 

ということで、自分自身、「教育」という発想を辞めることにしました。

 

当然仕事をしていくための「指示」は必要でしょう。

そして、その指示を浸透させるための「説明」も。

 

そういう時は、必ず「僕は」を主語に使うことにしました。

「これだと僕がこういう理由で困る。だからこうしてほしい。」

 

こういってみると、自分の言ってることの方が単なるワガママじゃないか、ということを自分自身顧みなければならなくなりますし、言われる部下の側も、色々と言いたいことを言ってくれるようになりました(これは単に舐められているだけなのかもしれませんが)。

これが一般的に良いのか悪いのかはまだわかりません。

特に、部下の育成も仕事のうち、と考えると、単なる職務放棄なのかもしれません。

ですが、今のところはこれでうまく回っていますし、自分が部下の時を考えると、こちらのほうが仕事もやりやすく、結果的にはかえって成長できるのではないか、と勝手に想像しているところです。

 

なお念のため、いい結果が出た時については、自分が中心だと反感を買うのでご注意を。「僕が頑張った」ばかりでは、単に自分一人の手柄にしているみたいなので。

   

※前回記事は多くの人に読んでいただけたようで、ありがとうございました。

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